昭和39年12月18日 朝の御理解



 昨夜奉仕の時間が終わってからで御座いました、11時何時かだったでしょうか、福岡の東さんのお母さんから電話が掛かってきた。私丁度ここに座っておりましたから、電話を受けさせて頂いたんですが、「ただ今、嘉昭が、呼吸困難高熱のため大変でございますからお取次ぎお願いしますと言う事であった。私は電話の受話器を持ったまま、そのままお取次ぎさせて頂いた。
 またようと話さんままに神様から頂くことがあってから、それを聞きましてからお届けをさせて頂きますて言うてから、私は(よろしゅうお願いします、よろしゅうお願いします)て、もうなんかお届けしたけん安心したと言った様な感じ。しかしとおもうですね電話ででもお取次ぎ頂かしてもろうて、しかも夜の夜中に、東さん難儀な場合です、電話ででもお取次ぎを頂き。
 お取次ぎを頂き表わして頂いたら、おかげが頂けれるということがある。とにかく私は、私は、言わば五里霧中、ただ、「はいはい、ならお願いしときます、お困りですね」って、こういうようなことであったら、そんなにいうにいかんと思いますね。昨夜、そのお取次ぎを終わらして頂いとりましたら、そういうふうにいうてくるんですお礼にきて、このようなおかげを頂きましてから。
 早う出てこにゃならんと、昼が忙しくて出てこられなかったと言うて、ま普通ならお参りがでけんところでございますでしょうけれども、そのおかげを頂いたということがです、ちょっとお礼に出てこなければおられなかったわけなんですね。何ヵ月か前にあるお得意さんから仕立物だいぶ受けておった。それで急ぐのではないけれどもいついつまでにしてさせてもらえば、と言った様なものだったらしいんです。
 ところが夕べです、夕べですから昨日の晩、昨日の晩参ってきてからその、先方から電話が掛かってきてた。ところが自分んとこの帳簿にはそれが載っていない。どこに仕立てを出したやらも分からん。確かに受けたことだけは間違いない、覚えておるわけなんです。もうその日が経つもんだから、忘れておるわけです。それをだぁれもそれを覚えておるもんがおらん。
 そこでその自分ところの仕立てをやるところのもう、しらみ潰しに調べてもらったけれども、そういうものはない。必要なものはもう、言わば、その昨日、昨日に迫っておるわけなんです。もうどうにもできない。私お取次ぎさせて頂いたら、「つばめが思う様にしますという御理解を頂いた。」向こうの方がのびるのかもしれん。私の心ん中はそんなもん、ね。
 必要なものがのびるとか、まだ何とかそのうちおかげ下さるんじゃなかろうかと、こう。あっこの番頭さんの森ちゃんが、あっちこっちずうっとその、夕べ帰られたのがやっぱ十一時でしたでしょう。その遅うまで、探して歩いてあられる。そして帰って来てその森さんが言われるのに、「奥様、今どこどこに行きましたらですね」ね。お得意さんが内藤さんという方。
 そん内藤さんと名札のついた着物ば、どこどこで確かに、もう以前のごとあるけれども、仕立てなさったの私は見たっち言う人が出てくるんです。そう言われてみるとですね、以前にそこにそん取引き、仕立ての取引きをしよったうちなんですから、ひょっとすれば、そうかもしれんて言うてから、昨日の朝やらして頂いたところだった。むこうがそこだから、もううちの仕立てはできとった。
 どうしていっまで取り来んじゃろうかって言いよったと言う様な事だった。おかげでもうほんとにもう、向こうがいうつらにきちっと合うたわけです。で昨日田代さんが言われた。「親先生があの、つがめが合うようにお願いします」とおっしゃったけん、どうおかげを思うてから結果的に言われる。理屈は同じこと。私昨日東さんの、そしてお取次をさせて頂きながら思うた。
 また私がそのう向こうの電話を受けた時に頂いた、その感じと、神様ある意味で厳しいなあと思うんです。この頃なんか、この人はいつも私が御本部参拝する時に、もうまず、大体付いて来ないことはないです。ところが、ちょっとした理由で、今度はご無礼するから、「ああ、そう。なら、ご無礼しなさい」て言うて。ところが十日の十日のお祭りの内に三回も追突したり、三回目には三重衝突までした。
 ほんとにそれはもう危機一髪のところで、命のない2人ケガ人が出来たそうですけれども、大したもことなかったんですもう。がです、私が最近思うにその、お気付けを頂くというてもね、痛い思いをしておきずけ頂くと言う様な事じゃなくて、何か有り難いことで、有り難いことでおかげを頂くように、私はこういうに願う、最近願うんです。全然、(添い寝も?)ならなければ痛くもないっと言った様なことで、もうそれこそはっと思わぬではおられんような、言わばお気付け、ね。
 東さんさあそこを気付かんわけにはまいりませんですよね。なぜ神様がほんなら、他の者には、参れっち言うても参らん人もあっても、言わば、そういうお気付けひとっも頂けんか、東さんの上にだけ、そうして、そういう厳しいお気付けが現れるかということ。多少東さんに期待があるからだと思うですね。皆さんもご承知のように、もうほんとに、まあ言うなら、こたえんようなものを持っっちゃるですね。
 このこのようでしたけれども、その次参ってみえた時に「今日もどこどこの誰々という人があの、即死で亡くなられた」というわけですね。思えば思うほど気の毒な方。そこで、御霊様の助かりのために、御霊様の助かりのために、わざわざ終わって警察官って、わずかばかりの給料ですよ。そのわずかな給料の中から、その御霊のためにお取次ぎを願われる、御霊様のために、御霊の安心のおかげを頂くことを願われる。
 以来もうとにかく何十人でしょうか、御霊様達は。私は思うんですけれどもね、私はまず、その目に見えないですね、目に見えない御霊の助かり、根の助かり。家なら、家でもそうです。皆さんの、皆さんがほんとに助かりたい、枝葉が生き生きしてくるおかげを頂くためには、まず、皆さんの家の根が助からなきゃでけんです。先祖です。またお取次をさせて頂くならです。
 目に見えないそういうような、あの根を助けれる取次者にならなきゃだめだと思う。いわゆるお参りしてくる信者氏子の根を助ける、どんなに難儀な中にあってもです、どんな中にあっても、難儀を難儀と感じんようなお繰り合わせを、取次がせてもらえれる取次者にならなきゃならんと、私は思う。3日間におかげ渡せれるような徳も大事だけれども、まず前に、今日その心が助かる。
 どんな難儀の中を通っておってもです、それを難儀とも感じんほどの心の助かり。椛目のおかげを頂くようにならせて頂いたら、何と言うてもまず、自分の心が助かる、心が楽になる、その上に、おかげが頂けれるというようなおかげになってこなければならんと思う。まず根の助けれる、私取次者にならにゃいけん。いやまず、お取次を願うなら、根の助かりを願わなければいけんと。ね。
 先祖の助かり、私の心の助かり、家族の者の心の助かりを願う信心。形のお繰り合せよりもまず、心のお繰り合せを願えれる信心に、だからならなきゃでけないということになる。私昨日、東さんのお取次させて頂く時にですね、受話器を取らせて頂くと同時に頂く事まあだむこうお届けがあっとるもう、はいはいち言う前に、受話器を上に上げたらです、あの歌舞伎の笹物にね、連獅子というお芝居があります。
 有名なお芝居です笹物です。白い獅子の毛を被ってねあの、二人で連れ舞いをするお芝居なんです舞踊なんです。連獅子のですね大獅子と子獅子がこう舞い狂っておるところを頂くんですね。」ほっとそしたらその東さんのお母さん。そして願われることは「嘉昭がただ今こうですから」というお届けであった。そして聞かせて頂いてから私が今承知しました!と、こう言えれるあのものを感じたわけなんです。
 椛目のご理解を、頂いておられるかたたちならば、皆さんでも例えばです、皆さんがですよ、そういうお取次をもしされる立場に立った時です、神様からそういうお知らせを頂いたらです、「はい承知しました」、向こうが心配でもあるんなら、「心配しなさんな」とでも言うてあげれるようなものが感じれれる、おかげを頂かにゃでけん。どういうことかと、分かるですね、皆さん。
 獅子は自分の子供を、千尋の谷に突き落としてから、子供を鍛えるということです。もしそこを這い上がってでも来きらんごたる子供は、よう育てないそうです。ね。上からししがです、その突き落とした子供が、どうぞ苦しみよるとを、ただ眺めとるというだけじゃあない。親獅子の願い、親獅子の思いというものは、ねえ、「さあそこを頑張って登ってくるのぞ」と。
 もう上からもし届くものなら、手を差し投げてやりたいごたる思いで、親獅子は上から見ておる。それが例えば、その、もうその手足血みどろになりながらでもです、それを這い登った時の子獅子の気持ちもさることながら、親獅子の思いはもっと有り難いものであろうと、私は思う。ね。はぁ言うなら東さんは今千尋の谷から突き落とされておるようなもんだなと。もう呼吸困難というほどに。高熱のため。
 そこを生神金光大神様で、そのおすがりさせて今頂いておる時だと。そこを一つ生神金光大神で頂きぬいてくれ、ともこっから祈らにゃおられません。さあ医者が注射でもいうようなこっちゃでけんぞぉ、と私は心の中で思うわけです。そして、ここでほんとに登れ、上に這い上がった時に、力を受けとかにゃならん。なるほどっ、神様のおかげが頂けれる、こういう気持ちになりゃ、こういうおかげが受けられることを、体験してもらわなければならないと、こう思うわけなんです。
 なぜそういう神様、力をその東さんの上に求め給うのか。是はもう最近この前のお月次祭じゃないですから、何日前だったでしょうか、参ってまいりましてから、お届けするのです。「先生、最近、不思議な現象がある」。どういうようなことか。私の宿直の時に限って、そっちの事故があると。私そん時ですね、なんかこう、身が少し震い出すような感激を覚えたです
 。信心のある者が、宿直の時間にです、宿直の時に限って、言わば、そういう事故がある。わざわざそこに集めなさるようにして、その事故がある。天地の親神様の願いであり、ね、やはり、この世にあるものも、あの世にもあるものも、やはり、天地の親神様のかわいい氏子に間違いはないのです。ですから、東さんの関わりのある、東さんに力ができておれば、その範囲だけにはです、ここに集めて取次ぎ助けてやりたい御霊をですよ、という神様の切なる願いと同時にです。
 東さんに、ためには、十人助けるよりか二十人、二十人助けるよりも三十人の御霊が助けられるようなおかげを頂くためには、「さあ力がいるぞ」というところに、神様は力を求め給うておるということを感じたんです。ね、私はまず根が助けられる、根、根が助からなければだめだと。それはなるほど、縁も縁(ゆかり)もないとです。けれども、その職務柄、さっと、そのところも、名前も年もお届けしてる。
 そして、こういう御霊が今日、こういう事故のために亡くなったと。どうぞ、もうほんととっさのことでございますから、本人としてはもういわばちゅうに迷うような御霊が多い。それを、例えば東さんの取次ぎによって、言わば、安心の御霊としてです、助かっていかなというようなことまでいかんに致しましてもです、何とはなしに、そこに御霊ながら、安心の御霊としてのおかげの頂けれる。
 言わばこう、お導きがです、お取次ぎができるということが有り難い。目に見えない根を今、おかげを頂いている、そんな感じが致しますね。夕べ遅う、ほんとにもうやんがて一時でございましたでしょうか。桜井先生と二人でまあいろいろ、信心のよもや話をさせて頂くことでございました。もう先生あたりが通っておられるのがです、言わば、目に見えないけれどもです。
 目には見えないけれども、根の助かり、言わばそういう根の、そう言う様な所に、まこう触れていかれておる。信心の言わば妙境に佳境に入っていかれておるという感じ。先生の心の上にも、根が助かっていきよるだけではなくてです、いろんな信心の様々なその、言わば、めぐりの意味とでも申しましょうかねぇ。そのそのへんのところが、こう形の上に、おぼろげながら分かっていきよる。
 「こんな話はねもうあたしと、あんたでなければわからん話だね、言って話したことでした。そこのところの取次が、助かりがでけれるようにならなければ、しかし本当の一人前の取次者とは言えない。それでいて例えば今も申しますようにですたい、ね、むつやならむつやさんの、昨夜の御礼お届けのようにです、形に現れてくるところの、取次ぎ助けるというおかげの、も頂けれるようになってくるんだとこう思うです。
 そこでまあ今日の御理解を頂いて、皆さんがこれで分からなければならないことです。ね。教祖の神様がご晩年にはもう、おー、本当に、それを異口同音におっしゃったと。「用心しなされよ」と。ね。信心に少し身が入ってくると、神様のお試しがありますぞと、こういうことであった。ね。ここまでは辛抱でけるけども、これから先が辛抱でけんといったようなことで、それから先が辛抱である。
 それから先が力を受けるのであるということ。ね。今こそ神様は私を鍛えに鍛えておってくださるんだな、今こそ私を千尋の谷に、言わばおる時だなと。ここを登らんでおくもんか、という勢いがです私は必要だとこう思う。ね。そこから親神様の思いにも触れることができ、言わば、根の助かり、自分の心の助かりの頂けれるところの、言わば楽しみというかね。それは苦しい。ね。
 けれども、苦しいございますけれども、有り難いというような心の助かりが、いよいよ頂けてくる。その心の助かりの上にです、形の上のおかげが頂けてきて、初めてほんとのおかげではないかと、こう思うんです。ね。言わば、ほんとにお互いがです、苦しい時には、ほんとに苦しいですけれどもです、その私以上に、もう苦しい思いというか、ハラハラする思いで見てござるのは、思うてござるのは、神様の方です。ね。そこん所を一つ分からないかんと思うですね。
(終わり)